ことばのほとり

新規テミンペンのゆるいオタ日記

その林檎は食べるな

絆という言葉。

<h2></h2>

幼少期に遡る。
第二次世界大戦の被害が特に甚大だった地域では幼児の頃から容赦なく反戦教育を叩き込まれる。今でも覚えている。私が寝ている間にあの恐ろしい爆弾が落ちてくるんじゃないかと布団の中で怯えていたことを。

怖かった。やがて大人になるにつれその怖さの対象は「全体化した人間の習性」、全体主義に陥ることで風にはためくカーテンのようにたやすく無責任にあっさり残酷になれる人間の習性へと変わっていった。

歴史を振り返れば自明のことで、あの反戦教育は愚かな人間にとって決して外してはならない枷だと今では思う。

一方で団結が必要な場面もある。人間は群れで暮らす生物だからだ。

絆という言葉は紙一重で危うい。
あるコミュニティにとってはその繋がりが何よりも尊い
また権力者からすれば国民を煽動する大義名分として非常に便利。
一見綺麗だからこそ、私は余計に絆という言葉が怖い。

<h3></h3>

さて、『Guilty』をリリースしたテミンが「絆」という言葉を使うことについて、実は私は戸惑っている。
バタイユ著「エロティシズム」から着想を得た『Guilty』。禁止の侵犯の正体は、本当に腹部を見せるポイントダンスのことだったのか。

恐らくMVを観た方の大半は、それがアイドルとファンダムの構造を暴くことだと察したんじゃないか。エゴを愛と呼ぶこと、毒林檎と知って白雪姫に渡すこと、毒林檎と知って齧ること。そういう「見ないふりをしてきた構造」を暴くこと、それこそ『Guilty』における禁止の侵犯だと。

そんなテミンにとって「絆」って何?と。

<h3></h3>

私はテミンではないので勿論分からない。

ただ、彼はリップサービスではなく本当にそう感じてそう発信したんだと思う。

テミンが『Guilty』をリリースできたのは彼がそれを受容できたから。
そして受容した構造の中に、それでも光を見出したからなのかもしれない。だといいなと思う。

でも私はその絆には入れない、というのは前章で述べた枷に由来する。生理的に無理なのだ。
そもそも私は推しとはレイヤー(層)を隔てて生きていきたい。遠くで味噌っカスで時々ボソボソと呟くように生きていきたい。

<h3></h3>

ASEA投票を皮切りにXではブログとは違う活動をした。
投票を呼びかけ、団結を掲げ。
ポジティブに、強制せずがモットーだったけど、自分の中では葛藤があったし、さらにはそれを他人に促進するのは正直疲れた。

ここ最近のブログはそうした自分を背負うための通過儀礼

そして、その節は私の自己満足に巻き込んで本当に申し訳ありませんでした。