ことばのほとり

新規テミンペンのゆるいオタ日記

【メタモフ雑感】憑依系アイドルは何を憑依させているのか|テミンの場合

もともと演劇界隈で初めて耳にした「憑依系」。大竹しのぶさんだったかな。
まるで何かが乗り移ったかのように変質するタイプの役者をそう表現していた。
アイドル界隈にきて、アイドルにも憑依系という修飾が使われていてちょっとびっくりした記憶がある。

役者はその「役」を憑依させる。
では、アイドルは何を憑依させているのか?

 

 

憑依系アイドルは何を憑依させているのか|テミンの場合

テミンの話は少しおいて。
実は私の中でこのアイドルこそ「憑依系アイドル」だ、と強く推している代表格がいる。
中森明菜さん。

www.youtube.com

残念ながらリアルに見てきた世代ではない、何かの番組で「少女A」「十戒」を見て、あまりのカッコ良さに痺れた。

www.youtube.com

こちらは当時20歳。

中森明菜が憑依させているモノ

あくまでミーハーな超ライトファンの仮説として。
私はその時代と大衆が求めた「理想の中森明菜像」だと思っている。

僕がツッパリ少女路線の詞で書きたかったのは、不良性の持つパワーと魅力です。社会からの抑圧に負けず、きっちり筋を通し、守るべきものは守る。妥協したりうまく立ち回ろうと考えたりせず、自分が不誠実だと思うことはしない。

そのようなヒロイン像が、明菜ちゃんの中にある純粋さやまっすぐさともシンクロして、すごくいい歌になったし、こうした生き方に憧れる人たちの共感を集めたのではないかと思います。
引用:https://dot.asahi.com/articles/-/73423?page=2

なぜ"ツッパリ少女路線”がヒロインとなり得たのか。1970年代末期〜1980年代にかけて校内暴力が深刻な社会問題となっていた、らしい。当時を知らないので教育関係のサイトからの引用になるが

校内暴力が同時多発的に全国津々浦々まで広がった背景には、学校だけに原因があるわけではないことは明らかです。学校だけに原因があるなら、あのように同時多発的な広がり方はしないはずです。社会の罪も大きいと思います。
(中略)
「弱者は置き去り、強ければそれでいい」「法に引っかからなければ、バレなければそれでいい」という風潮が強まっていったと感じています。戦時下がそうであったように。
引用:https://edupedia.jp/archives/23876#index_id7

そんな時代において、"社会からの抑圧に負けず、きっちり筋を通し、守るべきものは守る。妥協したりうまく立ち回ろうと考えたりせず、自分が不誠実だと思うことはしない。”という存在は確かに理想的と思える。
ちなみに、この"ツッパリ少女路線”で中森明菜はブレイクするが、本人はこのツッパリ路線は好きじゃなかったらしく、「北ウイング」頃から路線変更している。

時代と芸術の視座の変遷

いつまでテミンをおいておくのか、もう少しだけおく。

過去、芸術は王族や貴族といった特権階級にのみに許された分野だった。
それが庶民の手まで降りてきたのは19世紀に入ってからで、この辺りでよく名前が出されるのが画家のギュスターヴ・クールベだった記憶がなんとなくある。(学生時代の記憶が遠い)

それまでの西洋絵画において、大型の作品は歴史や宗教を主題に扱うことが通例だったが、クールベは名も知れない庶民の葬式を、威厳をもって描き、当時の美術界に衝撃を与えた。
引用:https://bijutsutecho.com/artists/223

で、そこからさらにビーッと現代まで線を引いて眺めると芸術の視座が
特権階級(国家、宗教)→共同体(村や家)→個人(→個人の内面)
に移り変わっているのが分かる。

これはそのまま実際の社会の視座と同様というか、社会構造の変遷が芸術に呼応している。
現代はかつてない程「個」にフォーカスされつつある時代。
で、あるならばテミンはまさに今の時代の憑依系アイドルだと思う。

テミンは何を憑依させているのか

テミンの話。テミンが具体的に何を憑依させているのか。
テミンの「眼」だ。視覚のことではない。

眼に関していえば、セザンヌからモネへの最大の賛辞として展覧会でもよく引用される

モネはひとつの眼にすぎない。しかし何という眼なのだろう!

モネは生涯にわたって、自然の光のうつろいや、それがもたらす色彩の変化をひたすら見つめ、自らがとらえた「瞬間の表情」をカンヴァスの上に描き続けた。
引用:https://bijutsutecho.com/magazine/insight/28185#

「眼」についての補足として哲学と美術の関係を解説する以下のサイトから引用させてもらう。

哲学は物事の本質を「言葉」によって表現するもの。それに対して「形や色」などで表現するのが美術。アートも何か対象物を絵にしたり造形にしたりするときには、その対象物を自分なりに「とらえ直して」いるわけです。例えば、リンゴは普通、赤い球形として見えていますが、リンゴから悲しみを感じとり、絵で「悲しみ」を表現するということもできる。ただ単に見えている物の中から自分がとらえたさまざまな側面を表現できるわけです。哲学はそれと同じことを言葉によって行うのです。
引用:https://www.nichibun-g.co.jp/chubi/joint_art/1335/

3/10にライビュでメタモフを鑑賞した際、何に驚いたかと言えばテミンの媒体としての完成度の高さ。実在としてのテミンはこの「眼」の媒体、モネでいうカンヴァスに徹していた。その肉体、表情や動きの細部に至るまで。

テミンが過去のインタビューで格好良さとは何か?の質問に対し「表現したいことを、"どれだけ正確に表現できるか”に答えがあると思う。」と答えた。(参照 https://danmee.jp/knews/k-pop/topstar-shinee-15/)

それこそ多くの芸術家の本懐なのだけれど、ここまで自分を捧げられるとは正直私は予想していなかった。

そういうのは「アーティスト」の領域ではないの?とも思うが、見方を変えれば偶像に個という自我が認められた(許された)現代ではアイドルとアーティストの垣根はほぼ意味がないのかもしれない。

テミンの面白さ

実はテミンがユニークなのは、そうやって「眼」の媒体に徹しながらもパフォーマンス中にシームレスに自由奔放に「テミン」の顔を見せることだ。愛されマンネでお茶目でちょっと天然な…

そんな時、私は可愛いとメロメロになりながら安心する。「眼」というのは実在がない。だからその美しさに感動しながらも観ていて少し怖くなるから。テミンは居るのに、居ない気がして。(ただそれこそテミンの凄味なのだけど)

 

▼日本公演のセトリ・感想はコチラ▼

lkotonoha.hatenablog.com

▼韓国公演のセトリ・感想はコチラ▼

lkotonoha.hatenablog.com